ウィンナホルン製作者の歴史(ウールマンからアンケルまで)
(T.Joebstl論文 H.Copping英訳による)

文:中根慎介

1.Leopold Uhlmann(レオポルド・ウールマン)

1830年にウィンナバルブを発明した人で、ウィンナホルンの父と言ってよいと思います。父親が楽器製作所を創設し、息子のレオポルドといっしょに大量の楽器を作っては方々に売っていました。オーストリア軍隊、マルタ島(地中海中央部にある元英領土)の英軍、更にはウィーンの劇場でもこの親子が作った楽器が使われていたようです。この潤沢な資金を元にして息子のレオポルドはウィンナバルブを発明したのではと想像できます。レオポルドは1878年に他界しますが、1904年まで彼の会社は営業を続けました。

2.Erste Produktivgenossenschaft der Musikinstrumentenmacher Wien
(ゲノッセンシャフト:ウィーン第一楽器製作者協同組合)

ちょうど20世紀の開始とともにこの名前の団体の元に多くの職人が集まって楽器製作を始めました。それとともにレオポルド・ウールマンの会社は衰退します。ゲノッセンシャフトには2つのワークショップが存在し、作られたウィンナホルンのクランツにはたいていの場合、以下の住所が書かれています。

住所1:Kaiserstrasse 55,Wine Z
住所2:Wiedner Hauptstrasse,WienY

この職人たちの中にジーゲルという人がいました。この人は第1次世界大戦後にデーマルやクリメッシュのもとで働くことになります。ウィンナホルン製作に関する歴史で最も重要な職人の一人です。

3.Anton Dehmal(デーマル)

アントン・デーマルはレオポルド・ウールマンのもとで見習い工として修行しました。それからオーストリアの大手楽器製作会社「Boland und Fuchs 」で1882年まで親方をつとめ、後にこの会社のワークショップを引き継いで彼自身の社「デーマル」を設立しました。1907年にはクリメッシュが後継者(1882-1957)となり、画期的なウィンナホルンをウィーンフィル主席ホルン奏者のフェレバたちとともに開発します。これがデーマルの代名詞ともなるあの細いベルだと思われます。開発の成功とともにデーマル社は拡売し17人もの職人を雇うまでになったそうです。更にはキーフマン(クリメッシュの娘の旦那)に引き継がれますが、この人は企業秘密の番人でノウハウを全てしまい込んでしまったため、弟子たちや若い職人たちはクリメッシュのころからいる熟練工に直接実演をしてもらって仕事を覚えるしかなかったようです。これが原因で歴史を積み重ねてつくられた見識が失われてしまったのです(アンケルへのインタビューによる)。

4.Ernst Ankerl(アンケル)

アンケルはクリメッシュのもと、デーマル社で製作を学びました。1962年にはキーフマンの元でマイスターを取得し、1970年に彼自身の社を構え1973年にアンケルブランドのウィンナホルンをつくり上げました。アンケルは全ての部品を手作りとすることに価値を再び置くこととし、彼自身、ベルからチューニングスライドまで一体で作ってしまうことに長けていました。そのため楽器のお値段が従来の2倍近くまで跳ね上がってしまいました。1977年にキュンスターという人に継承されます。店は楽器修理を行いながら存在するものの残念ながら楽器製作はもう行っていません。

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ここまでがウールマンからはじまったウィンナホルン製作者たちのルーツです。このあとエンゲル(1998年で製作中止)、ガンター(既にウィンナホルンは製作中止)、ヤマハ、アトリエハーロー、ユンクヴィルト、ハーグストンといった職人・企業・町(村)工場たちが以上の歴史に関わりなく、続々とウィンナホルンの開発を独自に行い、販売に至っております。

以上、ウールマンからアンケルまでのつながりの説明でした。いろんな名前が出てきてわかりにくいでしょうが、これは仕方ありません。